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社会問題:膨張主義と保護主義

はじめに
9月16日(日)午後3時半からBSジャパンで「池上彰の戦争を考えるSP第10弾」の番組が放送されていた。なんとなく気になって録画したものを視聴した。終戦に向けての御前会議の状況や当時の総理大臣であった鈴木貫太郎に寄り添った報道をしていた。なぜ、日本が太平洋戦争に突入したのかは、学校の教科書や日常の報道などではなかなか理解できない。理解できないという意味では、なぜ豊臣秀吉が当時の朝鮮に出兵したのかも理解できる説明を受けることが少ない。非常に重い問題だし、簡単に答えが出るものではないけど、少なくとも悪意を持って戦争を開始したものではないと理解したいが、国外に撃って出る膨脹主義と鎖国を代表とする保護主義はなぜ繰り返されるのだろうか。

終戦にあたっての昭和天皇勅語
いわゆる玉音放送が流されたのは1945年(昭和20年)8月15日の正午だ。わずか73年前のことだがやはり普通の現代人にとっては難解だ。
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昭和天皇勅語の現代語訳
ネットで調べるとHUFFPOSTが現代訳を掲載していた。これなら理解できる。
私は、世界の情勢と日本の現状を深く考え、緊急の方法でこの事態を収拾しようとし、忠実なるあなた方臣民に告げる。私は政府に対し、「アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に、共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れる旨を伝えよ」と指示した。そもそも日本臣民が平穏に暮らし、世界が栄え、その喜びを共有することは、歴代天皇の遺した教えで、私も常にその考えを持ち続けてきた。アメリカとイギリスに宣戦布告した理由も、日本の自立と東アジアの安定平和を願うからであり、他国の主権を排して、領土を侵すようなことは、もとより私の意志ではない。だが、戦争はすでに4年も続き、我が陸海軍の将兵は勇敢に戦い、多くの役人たちも職務に励み、一億臣民も努力し、それぞれが最善を尽くしたが、戦局は必ずしも好転せず、世界情勢もまた日本に不利である。それだけでなく、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪のない人々を殺傷し、その惨害が及ぶ範囲は測り知れない。なおも戦争を続ければ、我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破壊してしまうだろう。そのようなことになれば、私はどうして我が子のような臣民を守り、歴代天皇の霊に謝罪できようか。これが、共同宣言に応じるよう政府に指示した理由だ。私は、アジアの解放のため日本に協力した友好諸国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。日本臣民も、戦死したり、職場で殉職したり、不幸な運命で命を落とした人、またその遺族のことを考えると、悲しみで身も心も引き裂かれる思いだ。また、戦争で傷を負い、戦禍を被り、家や仕事を失った者の生活も、とても心を痛めている。これから日本はとてつもない苦難を受けるだろう。臣民みなの気持ちも、私はよくわかっている。けれども私は、時の運命に導かれるまま、耐え難いことにも耐え、我慢ならないことも我慢して、未来のために平和を実現するため、道を開いていきたい。私はここに国体を護ることができ、忠実な臣民の真心に信じ、常に臣民とともにある。もし、感情のままに争いごとや問題を起こしたり、仲間同士が互いを陥れたり、時局を混乱させたりして、道を誤り、世界の信用を失うようなことになれば、それは私が最も戒めたいことだ。国を挙げて家族のように一致団結し、この国を子孫に受け継ぎ、神国(日本)の不滅を固く信じ、国の再生と繁栄の責任は重く、その道のりは遠いことを心に留め、持てる総ての力を将来の建設に傾け、道義心を大切にし、志を固く守り、国の真価を発揮し、世界の流れから遅れないよう努力しなければならない。あなた方臣民は、これが私の意志だとよく理解して行動してほしい。
 出典:玉音放送を現代語にすると...「耐え難いことにも耐え、我慢ならないことも我慢して...」【終戦の日】

開戦の理由
玉音放送といえば「耐え難きを耐え」ばかりが有名だが、開戦の理由もここに述べられていた。「アメリカとイギリスに宣戦布告した理由も、日本の自立と東アジアの安定平和を願うからであり、他国の主権を排して、領土を侵すようなことは、もとより私の意志ではない。」というところだ。つまり、当時のアジアは、フランスやポルトガル、スペイン、イギリスの植民地とされ、独立国は日本国とタイのみだった。開戦しなければ、日本も植民地化されるという危機感があったのではないか。また、植民地化されたアジア諸国の独立と平和のために立ち上がったのだろうか。この辺りのことは諸説あり、判断が難しい。

初めての海外出張
会社に入って初めての海外出張は1985年で、アルブフェイラというポルトガル南部の港町だ。アラビア語で「海上の城」を意味し、イスラム支配時代には城塞が築かれた。アルガルベ地方を代表する海岸保養地だ。当時の国際通信は海底ケーブルと衛星通信だ。そして、衛星通信を運用するのがインテルサットだ。その衛星は大西洋をカバーするものと、インド洋をカバーするものと、太平洋をカバーするものの3種類だった。日本がアクセスできるのは太平洋衛星とインド洋衛星だ。そして、その運用者会議が毎年行われる。太平洋衛星とインド洋衛星の運用方針を決めるOR(Operation Representative)会議には運用を統括する本部長もしくは部長が参加する。大西洋衛星のOR会議には部長もしくは当時の課長が参加していたが、都合が悪く、当時の係長も都合が悪く、なぜか平社員の自分に白羽の矢が立った。衛星のことなど全く知らないのに、「何もないから」と言われて出席した。流石に過去の会議資料などを精査して、わからない用語を必死に勉強した。詳細は割愛するが、その時に感じたことは世の中の重要なことは欧米で決まるということだ。欧米と言っても、一枚岩ではない。ゲルマン系とラテン系はやはり意見が異なる。もしくは北米勢力と欧州勢力の意見がぶつかり合う。そんな時に東アジアから唯一参加した20代の若者だった自分は非常に貴重な経験をさせてもらった。そして、その時に感じたことはやはりアジアの力を集結するべきということだった。
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大東亜構想
大東亜構想の是非はここでは議論したくない。大東亜戦争を始めたことが良いはずはない。しかし、「アジアの国々が独立し、東アジアの安定平和」を図ろうとする意思は悪いことではなかったはずだ。「動機善なりや」だ。Wikiによれば、大東亜共栄圏は、「ドイツ国の生存圏(Lebensraum)理論の影響を受けて、「共栄圏」の用語は外相松岡洋右に由来する。日本が指導者として欧米勢力をアジアから排斥し、日本・中華民国満州を中軸とし、フランス領インドシナタイ王国イギリス領マラヤ、英領北ボルネオ、オランダ領東インド、イギリス統治下のビルマ、オーストラリア、ニュージーランドイギリス領インド帝国を含む広域の政治的・経済的な共存共栄を図る政策だった。」とある。先述した通り日本とタイ以外は全てどこかの国の植民地だったという時代背景も理解すべきだろう。

ドイツの生存圏(Lebensraum)理論
ドイツがなぜ英仏と戦ったのかも不思議だった。本当の理由はわからないけど、この生存圏という考え方はキーワードかもしれないと感じた。生存圏とは、国が生存するための地域だ。英仏蘭等の先行国はアジアやオセアニアの諸国を植民地化して領土を広げたが、ドイツは領土を広げるのに後塵を配した。それを挽回するためにいわゆる東欧に活路を見出そうとして頓挫した。駐日ドイツ大使館のカール・ハウスホーファー駐在武官は、日本が韓国併合したことを膨張主義の成功例として注目したという。アドルフ・ヒトラーもこの膨張主義に活路を見出そうとして暴走してしまったのだろうか。

江戸時代の鎖国
国内に話を戻す。鎖国と開国は、NHK大河ドラマの題材になることが多い。しかし、なぜ日本が鎖国に突入したのかを納得できるような説明もまたあまり聞いたことがない。Wikiによると、「鎖国とは、江戸幕府が、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態及び、日本を中心とした経済圏を指す。」とある。また、「1639年(寛永16年)の南蛮船入港禁止から、1854年嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。」とある。この頃の日本は実は軍事大国だったという説がある。軍事大国だったからこそ、他国も日本の鎖国制度に従わざるを得なかった。また、鎖国して保護主義に徹したからこそ、日本は欧州列強国の植民地とならなかったのではないか。

キリスト教の禁止令
日本は多神教だ。仏教も神道キリスト教も受け入れてきた。キリスト教の禁止令をWikiで調べると、「日本で1612年(慶長17年)及び翌1613年に江戸幕府が出したキリスト教を禁ずる法令を指す。」とある。そしてキリスト教の禁止令を出した1612年の27年後に当たる1639年に鎖国する。キリスト教の禁止令を出すだけでは欧米列国からの攻撃に対抗できないと判断したのではないか。キリスト教一神教だ。また、江戸時代の宣教師は、純粋にキリスト教の布教のみを目的とするものではなかったようだ。まず宗教を布教し、信者を増やし、内乱を起こし、植民地にする。そのための尖兵部隊であることを江戸幕府は見抜いたのではないか。

バテレン追放令
時代をさらに遡ると豊臣秀吉バテレン追放令が1587年7月24日(天正15年6月19日)に発令されている。キリスト教の禁止令の25年前だ。
秀吉はイエズス会に対して「予は日本のいかなる地にも汝らが留まることを欲しない。ここ二十日以内に、日本中に分散している者どもを集合せしめ、日本の全諸国より退去せよ」と命じて、「伴天連追放令」と呼ばれる布告を出している。なぜ追放したのかには諸説があるが、有力なものは次の2点だ。
1) 大量の日本人が奴隷として海外に売り飛ばされていることに激怒した。
2) キリシタンが大量の神社仏閣など日本古来からの宗教施設を破壊した。
イエズス会は、キリスト教の布教を許すということは、一神教を認めるということであり、他の宗教の偶像崇拝を否定するのは当然のことだと居直ったような返信をしたことも秀吉を激怒させた要因だと言われている。
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火薬1樽女性50人
これも本当の話なのだろうか。1542年に種子島に鉄砲の伝来から1年後には日本人は鉄砲を模倣して、製造する技術を持っていた。しかし、火薬の原料となる硝石がないため、火薬を作れなかった。なぜ硝石がなかったのかといえば、その原料となる硝酸カリウムは水溶性なので乾燥地で算出される。日本では雨が多く多湿なので土に溶ける。このため、火薬を輸入するために日本女性が大量に奴隷として売り飛ばされたという。秀吉がバテレン追放令を出したことの理由の一つはこれに激怒したという説もある。
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 出典:「火薬一樽につき日本娘50人」キリスト教徒は日本の女を奴隷として50万人も海外に売り飛ばしていた - るいネット

白川郷と硝石
名古屋に単身赴任したときに白川郷には2回ほど訪問した。そのときに驚いたのは白川郷が山村にある割にその家屋の内装が豪華なことだ。一体その収入源はなんだったのかと疑問を感じた。調べると、収入源は「養蚕」と「煙硝」だった。養蚕は表の収入であり、煙硝は裏の収入だ。囲炉裏の熱を利用し、屋根裏で蚕を飼う。そして、床下に巨大な穴を掘って塩硝を生産する。江戸時代には、当時の加賀藩江戸幕府には隠密で火薬を備蓄した。そして、白川郷は火薬の原料を加賀藩に供給して加賀米と交換したようだ。合掌作りの床下に縦横4m、深さ2mの土穴を掘り、そこに稗枝を敷き、その上に交互に蚕の糞やヨモギ・キツネウドなどの山草を20㎝ほど重ねてそれを年に1~3回まぜあわせる。 そこに糞尿をかけると5年目に煙硝土が出来る。煙硝土を桶に入れ、煮詰める。 何回も煮詰めると煙硝の結晶ができる。これを20日ほど天日に干して乾燥させて製造する。大変な手間と時間がかかるが、それが白川郷の裏の収入となって繁栄したのは興味深い。
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 出典:合掌造りのご紹介|白川郷・五箇山観光ツアー・旅行|クラブツーリズム

朝鮮出兵
話を秀吉の時代に戻そう。なぜ秀吉が朝鮮出兵を決断したのか、その理由がよくわからない。豊臣秀吉がなぜ朝鮮に出兵したのか。その発想はのちの韓国併合に通ずるような気がする。西欧諸国はアジア諸国を植民地にしており、このまま放置すると日本まで植民地にされてしまうという危機感があったのではないだろうか。例えば、宣教師フライ・ルイス・ソテロはスペイン国王に「日本への軍事侵略は不可能」という報告をしているという。逆にいえば、日本を侵略しろという命を宣教師は受けて赴任していたということだ。確かに、遠いヨーロッパから日本に軍隊を送り込むのは大変だし、内戦になると日本は手強い。そのように判断したようだ。しかし、そこで諦めたわけではなく、日本を取り込んで当時の唐国を攻めさせる戦略と、逆に唐国を取り込んで日本を攻めさせるという戦略があったのではないか。どちらにしても漁夫の利を得るのはバテレンという作戦だったのかもしれない。『日本西教史』によると、秀吉はイエズス会準管区長ガスパール・コエリョに対して、「国内平定後は日本を弟秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりであるから、そのために新たに2,000隻の船の建造させるとしたうえで、堅固なポルトガルの大型軍艦を2隻欲しいから、売却を斡旋してくれまいかと依頼した。」という。イエズス会ルイス・フロイスの記録『日本史』には、『伴天連追放令』を出す直前に秀吉が家臣や貴族たちに対して、「伴天連らは、高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも鞏固である。このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ。」(中公文庫『完訳フロイス日本史4』)と述べたという。宣教師が日本を占領する目的で来ていることを秀吉が認識していた証左だろう。
 出典:フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉 | しばやんの日々

朝鮮出兵に関するWikiの韓国語版の記述
Wikiは多言語だ。朝鮮出兵を韓国語のWikiではどのように記述しているのだろうか。最近は韓国語も簡単に日本語に翻訳できるのでトライしたら変な日本語になる(涙)。日本語として読みやすくなるように少し加筆修正した。裏取引部分を詳しく説明しているのが興味深い。
1549年8月15日、日本の第一歩を踏み出したイエズス会フランシスコ・ザビエル一行は薩摩島津のおもてなしを受ける。火縄銃などをプレゼントして、京都で宣教許諾を受ける。その後、日本でカトリック教勢は爆発的に成長した。1587年、秀吉は教会の敷地を提供した。1589年5月に秀吉はイエズス会の司祭ガスパールコエーリョ(Gaspar Coelho)を呼んで密かに中国と朝鮮の侵攻のために自分の構想を明らかにした。もし朝鮮と中国の征服に成功したら、朝鮮と中国に教会を建て宣教師に協力すると言った。コエーリョは秀吉の計画に賛成するだけでなく、自分の影響力の下にあるキリシタン大名を動かし積極的に協力すると提案した。イエズス会の提案どおりに小西行長などキリシタン大名壬辰倭乱が勃発最前に先頭に立って、朝鮮軍と戦う。しかし、イエズス会の提案は、反対された。秀吉はキリシタン大名イエズス会の司祭たちの命令に基づいて動いていると判断した。1587年6月19日バテレン追放令を下し、カトリックイエズス会を弾圧した。イエズス会追放令に焦ったイエズス会の司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノはイエズス会の司祭の資格ではなく、インドの総督の使節資格で1591年3月に秀吉を謁見した。秀吉には、金色の装飾をつけた白色甲冑2着、剣二本、二本の銃砲、油絵、アラビア産馬二頭などをプレゼントした。このギフトに秀吉は大喜びしてイエズス会宣教師の布教活動を黙認した。翌年壬辰倭乱が勃発する、イエズス会キリシタン大名は戦場で最先鋒に乗り出す。壬辰倭乱で日本列島に渡ってきた朝鮮人たちの一部はカトリック伝道をする。日本が壬辰倭乱を引き起こす当時の日本による中国の攻撃計画もイエズス会の司祭によって作成された。英国のポール・ジョンソン(Paul Bede Johnson)は、著書「キリスト教の歴史」でイエズス会のアルフォンソ・サンチェス神父が、中国の征服計画を緻密に立てて、日本人がこれを支持したと記録している。アルフォンソ・サンチェス神父の計画は緻密だが、彼の計画書には、ヨーロッパでは1万〜1万2000人の軍隊が派遣されるべきで、マニラと日本で5〜6000人の原住民を動員しなければならず、主力部隊はマニラから出発し、マカオと広州でポルトガル人が挟み撃ちをしなければならないという内容が含まれていた。この計画は、スペインの無敵艦隊がイギリスへ対抗する時に構想されたが、欧州のカトリック教会と大多数の日本人が支持した。サンチェスはイエズス会の宣教師たちが日本人ボランティアを募集するために協力することを許可してほしいという手紙をマニラ司教に送った。当時の日本の指導者たちは、イエズス会とスペインがこのような中国の侵攻計画が議論されているという事実は把握していた。
 出典:https://ko.wikipedia.org/wiki/임진왜란

まとめ
日本がなぜ朝鮮に出兵したのか。なぜ満州に進出したのか。なぜ太平洋戦争に突入したのか。歴史を振り返る時に、ある事象が発生した理由は何か、そしてその元理由は何かと深く掘り下げるような思考が好きだ。まだ、自分の知識では答えが出ない。ネットを見ると教科書とは異なる意見も多数存在する。日本人は基本的に平和主義者だと思うけど、自分がやられそうなときには反撃する。やられたらやり返す。そんな骨太の民族だったような気がする。子供の世界で「いじめ」問題が解消されない。息子に「いじめられていないか?」と聞いたら、「自分からはやらないけど、やられたら倍返し」とちょっとドラマに影響されたような回答。まあそうだろう。そして、そんな子供をいじめない。いじめるのは、いじめても我慢する子供。やり返さない子供だ。日本は、海外からはどんな風に見られているのだろうか。金持ちの坊ちゃん。正当ぽい理由を突きつければおばあちゃまからお金をもらって、いくらでも貢いでくれる。そんな風に見られているような気がする。考えすぎだろうか。また、いま放送している西郷どんを見ていると違和感を感じることがある。薩摩長州に武器を提供したのはイギリスであり、江戸幕府に武器を提供したのはフランスだ。そして、その武器とはアメリカの南北戦争で使われた拳銃だ。時代は繰り返すということなのだろうか。誰かが日本に内戦を仕掛けて、武器でもうけて、内戦で疲弊したところで漁夫の利で征服する。そんなシナリオに対抗する方法として、当時の江戸幕府王政復古を決断したという説の方が説得力がある気がする。真実はどうなんだろうか。

以上

P.S.日本人として正しい歴史観を身に付けたいと思うけど、何が正しいのかよく分からない。でも、Wikiなどで海外の人がそれぞれの国の言葉でどのように書いているのかを調べると、意外な事実が見えてくることがある。自動翻訳の機能も向上し、AIが発展したらもっと真実が見えるのだろうか。