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安心安全:いじめ問題について考える

はじめに
現在は、年間200講座ペースで全国の学校等を行脚してお話をしている。技術士の仲間からは、どんだけ稼いでいるのかと言われることがある。講座一回の収入が20万円だとしたら、4000万円の収入のはずだ。しかし、自分はサラリーマンなので、そんな収入にはならない。しかし、そんな直接的な収入にはならなくても、日々子供たちや先生や保護者や教育関係者の人と話をすると、多くの気づきがある。そちらの収穫の方が断然に貴重だ。今回は、そんな日々の活動の中で感じたことをベースとして、いじめの本質とその課題、そしてその課題の解決法について思いつくままに記載したい。

1. いじめの本質
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(1) いじめの定義
いじめの定義は、悲惨な事件が発生するたびに改正されている。昭和61年度に定義された時には、自分より弱い者に対して一方的に、身体的心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているものであって、学校としてその事実を確認しているものだった。しかし、現在の定義は、平成25年に施行されたいじめ防止対策推進法による。具体的には、「児童生徒に対して当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」だ。つまり、かつてはガキ大将のように力の強いものが、弱い生徒を継続的に攻撃し、相手が深刻な苦痛を感じ、かつ学校で確認したものだった。しかし、現在は、生徒がいじめられたと宣言したらそれがいじめだ。このような定義になったことには多くの理由があり、経緯があり、配慮がある。多くの悲劇を繰り返さないための悲痛な定義だと言える。しかし、このために、いじめの件数はノコギリ状に増減する。つまり、いじめ件数は時系列で減少するが、定義が変わるたびに非連続に増加し、また時系列的に減少する。過去の定義と現在の定義に互換性がないため、減少したのか増加したのかよくわからない。再定義するのではなく、定義を追加して、過去の調査値との相互互換性を確保して欲しかった。そうすれば、例えば深刻ないじめの減少傾向、軽微ないじめの減少傾向をそれぞれ確認できたはずだ。

(2) 脳科学者の中野信子先生によると「いじめとは統治の失敗」
いじめの定義を探していると面白い話を聞いた。脳科学者の中野信子さんはホンマでっか!とかのテレビでもよく登壇され、活躍されている。著書も多い。その中野先生によると、いじめとは「統治の失敗」の結果の現象だという。つまり、どの組織にもルールはある。そして、どの組織でもこのルールを守らないメンバーがいる。そのため、組織はそのメンバーにルールを守るように注意したり、指導したり、諭したりする。しかし、それでもそのメンバーがルールを守らない場合には組織から排除する。かつての村八分はこの典型例かもしれない。村八分とは、村の掟を守らない村民に対して、葬式と火事を除くすべての交流を絶つ行為だ。農耕民族では、仲間との協調が必須なので厳しい抑制力が生じる。そして、村八分ではルールを守らない村民の程度によって1年とか期限を設けて反省を求めたようだ。これの是非を判断することは難しいが、個人的には日本人らしい優しい行為の側面を感じる。もし、これが他の農耕民族の国だと制裁や処刑をするのではないだろうか。狩猟民族だと、そもそも個人勝負なので、制裁にならない。中野信子さんの定義に従うと、いじめは絶対ダメというルールを決めて、そのルールを守らせようとすると、そのルールを守らない人が出てきて、その人が新たにいじめの対象となる。そんな悪循環に陥るジレンマがあるということは賢明な我々は理解しておく必要がある。
(3) 子供の社会は大人の社会の縮図
子供は大人の真似をする。真似をして欲しくないことほど真似をする。スマホの利用方法に関して子供を叱ろうと思ったら、実は自分がやっていた。まずは自ら反省せねばと感じることがある。マスメディアを敵に回したくないが、現在のマスメディアは、誰かが社会的に不適切なことをすると社会的に抹殺するまで攻撃することがある。芸能人や政治家が不倫をすると、そのような社会悪を許して良いのかと徹底的に糾弾する。それが本当かどうかではなく、そのようなニュースが注目されるかどうかがKPIとなっているように感じる。小保方さんの事件でも誰がどのような権限と責任で糾弾したのだろうと疑問を感じる。結果的には自殺者まで出ている。マスメディアは、警察ではないはずだ。検察官でもないはずだ。ましてや裁判官でもない。しかし、マスメディアがこれは問題だと判断したら、対象者が素直に陳謝するか、社会的に抹殺されるまで徹底的に攻撃する。その問題が真実かどうかは関係ないように見える。結果として視聴率が高まり、結果として紙面が売れれば良いと思ってるわけではないだろうが、見たくも聞きたくもないゴシップを流さないでほしいと思う。でも、日々テレビや新聞や雑誌で特定の人物が叩かれ、そしてそれを見ている人は「あんなことしちゃダメだよね」と傍観者になる。もし、子供社会で発生する「いじめ」が、そんな大人の社会の「いじめ」を模倣しているのだとしたら、まずは大人の社会でいじめが発生しないように、襟を正すべきではないだろうか。

2. いじめの解決法
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(1) 多様性を理解する。
何かに劣る生徒がいるからといってその生徒が劣るわけではない。誰にもでも得意不得意がある。あることが不得意だとしても、他のことが得意かもしれない。人はそれぞれ個性があり、得意分野がある。何かができないと糾弾するのではなく、個々の生徒の個性を理解し、長所を見つけ、その長所を伸ばすような教育こそが求められているのではないだろうか。高度成長期には、画一的な教育が有効だった。しかし、これからは画一的な教育では限界があるだろう。また、過去も画一的ではなかった。例えば、寺子屋では様々な年齢の生徒が学んでいた。そして指導者はそれぞれの生徒のレベルに応じて課題を示し、学ばせた。そんな個性を生かした教育をしてきた我々日本人が、子供達の多様性を尊重する教育をできないわけがない。教育システムの見直しが有識者の間で議論されているが、ぜひ前向きに改善に期待したい。

(2) 温故知新
温故知新とは、古いものを尋ね、求めて新しい事柄を知るという姿勢だ。かつての寺子屋では実語教を学ばせたという。実語教という言葉を聞いたことがありますか?私のブログでは何度も出しているが、初めて聞いた人も多いのではないだろうか。実語教とは、平安時代に書かれたもので江戸時代末期までの寺小屋では有効な教材として日本人の心を育んできた。具体的には上の図のような漢語だ。5語の文が2つで一つの文となっている。そして、そのような48の文で構成する。しかも、隣り合う文は韻を踏んでいたり、対比されていたりするので、48の文にリズムを与えている。例えば、最初と2つ目の文は、「山は高いから偉いのではない、木があるから貴いのだ。人は金持ちだから偉いのではない、知恵を持つから貴いのだ」という意味だ。この山は、会社等の組織に読み替えることも可能だ。会社は規模が大きいから偉いのではない、そこに働く社員が頑張っているから貴いのだ。3行目と4行目は、「お金は一生の財だが死んだら終わりだ。しかし、知恵は万代の財産だ。自分が死んでも後世に引き継ぐことができる。」という意味だ。5行目と6行目は、「玉も磨かなければ光らない。光らなければただの石だ。人も学ばなければ無知だ。無知な人とは愚人だ」となる。人はまだ光らない石かもしれない。でも、懸命に磨いて磨いて頑張れば玉のように輝く賢者になる。愚人ではなく、賢者を目指そう。そして、日本国を盛り上げていこう。そんなことを教えているのではないだろうか。そんなことを我々は子供に教えてきたのだろうか。勉強したら良い学校に入れ、良い会社に入れ、良い生活ができる。そんな論理では魂は動かない。でも、千年以上の間、日本人の魂を鼓舞してきたこんな実語教を我々日本人が存在自体知らないというのは悲しいし、もったいないことだと思う。すぐに実語教を教育システムに取り入れることは難しいかもしれない。でも、少なくとも実語教の存在を知る人が一人でも増えて欲しいと切望する。

3. 問題解決のための留意点
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(1) 軽微な事故で大騒ぎしよう
ハインリッヒの法則をご存知の人は多いと思う。私も大好きな法則だ。このブログでもなんども引用した。人は、大変な事故や悲惨な事故が発生すると大騒ぎになる。しかし、そんな重大な事故が発生する場合には、実は29件の軽微な事故が発生しているという統計的な指摘だ。そして、大騒ぎすべきは軽微な事故が発生した時だ。軽微な事故が発生した時に見過ごすのではなく、なぜそんな問題が生じたのかを分析し、対策を検討し、未然防止のための対策を実施する。そんなことを繰り返すことで結果として重大な事故を防ぐという考え方だ。これに異論を挟む人は少ないが、現状では真逆なケースが多いのではないだろうか。

(2) ヒヤリハットの情報を共有しよう
そして29件の軽微な事故が発生するような状況においては、同時に300件のヒヤリハットも発生していると指摘されている。例えば、いじめの被害者が自殺するような重大な事故が発生するような状況では、300件のヒヤリハットが発生している。重大な事故が発生しないような状況でも多くのヒヤリハットは発生している。そして、このヒヤリハットを見過ごさず、何が問題なのか、どうすれば良いのかという教訓をメンバー全員が共有することで、軽微な事故を未然に防ぎ、そして同時に重大な事故も防止する。そんな考え方が重要だ。

(3) ルールは悪か
組織の規律を維持するにはルールが必要だ。いじめを防止するためにもルールは必要だ。健全なスマホ利用のためにもルールが必要だ。ある市区町村では小、中学生にスマホ利用を禁止していた。そこまでいかなくても夜の21時以降のスマホ利用を禁止している市区町村もある。ある小学校では、携帯(スマホを含む)の利用を全面的に禁止していた。そのようなルールを決めることは悪ではない。しかし、そのようなルールを徹底しようとすると、本来なら見えていたはずのヒヤリハットが見えなくなるリスクがある。夜21時以降のスマホ利用を禁止するのではなく、夜21時以降スマホを使う場合には保護者の許可が必要とする。小学生に携帯利用を禁止するのではなく、携帯電話を利用したい時は保護者の許可を求める。そして、保護者は子どもたちがどのように携帯やスマホを使うのかをよく把握し、子どもが困ったり、ドキッとしたらアドバイスをしてあげる。普段は暖かく見守ってあげる。童話の北風ではなく太陽のように、緩いルールと暖かく見守る環境の方が有効ではないかと個人的には思う。

まとめ
2007年のUNICEF調査によると、次の2つの質問で日本人の子どもは他の国に比べて格段にはいと答える子どもが多かったという。それは、「自分は孤独で寂しいと考えるか?」と「単純労働に就業したいか?」という質問だ。いつから日本人の子どもたちはそんなに寂しく、そして向上心がなくなってしまったのだろう。小学生の輝く瞳を見ているとそんな風には感じない。しかし、中学や高校と進み、学力で選別されるにつれて、子供達の瞳が曇ってくる。学力偏重主義の是非論はここでは論じないが、成績が良いかどうかで人生が左右されると、自分自身に自信を失い、将来の夢を見失っている子供が多いのではないだろうか。女子高校生のスマホの平均利用時間は7時間だという。そして、1割は15時間以上だという。もう寝ている時間以外はずっとスマホを使っているということだ。そんなネット依存症の子供を治療する方法はスマホを取り上げることではなく、リアルな楽しみ、リアルに夢中になれるイベントや遊びや活動に没頭させることだという。スマホが好きなのではなく、他に興味のあることも、楽しいと感じることもないので、スマホを使っているだけだ。スマホの利用時間が増えると学力が低下すると説明すると、スマホの利用時間を制限しようとする父兄がいる。でも、いくらスマホの利用時間を制限しても学力は上がらない。当たり前だ。学力を上げたければ勉強に興味を持って、勉強に没頭することだ。そして、その結果としてスマホの利用時間は減少しているかもしれない。そんなアーキテクチャを理解して欲しいと思う。

以上

最後まで読んでいただきありがとうございました。