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イノベーションの歴史:落合准教授の講義

はじめに
昨日(25日)は30分ほど遅れてしまった。お客様との打ち合わせの開始が17時だったので悪い予感はあった。それでも、1時間ぐらいで終わるかと思ったら、もうノンストップ会議の勢いだった。流石に時間は区切ったけど、それでも打ち合わせが終わったのが19時少し前。講義は18時35分開始。完全に遅刻だ。幸い、場所はそれほど離れていなかったので、タクシーで飛ばした。財布に小銭が1050円あった。もうすぐというところで1050円だった。止まってくださいと言ったら、降りる瞬間にメータがガチャンと回った(涙)。結局、お釣りをもらうのに時間を食ってしまった。お金より時間が惜しい。

1. ファミリービジネス
講師は静岡県立大学の落合康裕准教授によるアドホック講義だ。内容はファミリービジネスと渋沢栄一の二本立てだ。最初は日本的な同族経営の歴史や特徴、また後継者育成の工夫などについて話を伺った。

1.1 日本におけるファミリービジネス
1) 世界最古の企業=金剛組

金剛(こんごう)組とは西暦578年創業の宗教建築を生業とする建設会社だ。現存する世界最古の企業だ。その最初は、聖徳太子の命を受けて、官寺の設立に関わった工匠だ。初代の組長は金剛重光で、百済の国から日本に招かれた。
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 出典:社寺建築の金剛組

2) 日本の長寿会社
金剛組だけではない。日本には1000年以上の企業が21社ある。これは世界でも類を見ないレベルだ。そして、その多くは西暦718年創立の法師といった旅館、西暦1000年創立の一文字屋和輔(一和)といった和菓子屋、西暦1141年創立の須藤本屋といった酒造などが多い。下の写真は炙りや一和だ。一和で提供される商品は、あぶり餅ただ一つだ。割り切りが素晴らしい。
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 出典:https://www.smartmagazine.jp/kansai/article/meal/2235/

3) 宗竺遺書
三井財閥の起源は、三井家だ。そして、三井家は藤原道長の五代孫右馬之介信生が近江国に土着し、武士になったのが三井家の始まりだ。近江国といえば、近江商人の三方良しが有名だ。大津のプリンスホテルのバックヤードにはこの近江商人の教えが今も掲載されている。堤家も近江商人だ。そして、この三井家が発達した礎となるルールが宗竺遺書(そうじくいしょ)だ。これは、1722年に家訓としてまとめられたものだ。6本家3連家制が定められ、同族の11家が一体となって三井家を盛りたてた。なぜこれが実現したかといえば、家の資産は全て長子が相続する。しかし、長子以外の家族も家業に貢献したらその貢献度に応じて利益を分配する。だから三井家のための三井家が頑張る。そして、その思想の背景には近江商人の三方良しがある。下の文献に詳しい。
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 出典:三井家の家憲「宗竺遺書」 | 三井広報委員会

1.2 ファミリービジネスのジレンマ
1) 自律と制約

創業者はゼロからの出発で苦労も多い。でも、苦労を苦労とも思わないほど頑張ったのだろう。問題はその後継者だ。創業者の息子が優秀とは限らない。だいたい2代目は苦しい立場だ。三代目で盛り返すことも多い。なぜだろう。それは、創業者は自律が中心だ。しかし、2代目には周辺の期待や先代の期待といった制約に囲まれている。

2) 獲得的地位と生得的地位
創業者は、自律的な努力を120%する。そして、これを落合准教授は獲得的な地位と呼ぶ。逆に、二代目や三代目は生まれながらにして後継者となる。これを生得的地位という。しかし、問題は、このバランスだ。自他共に後継者と認められたら、それは正統性を獲得したことになる。こうなれば企業は成長する。
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 出典:https://gentosha-go.com/articles/-/8181

3) 後継者の育成プラン
後継者をいかに育てるのか。ファミリービジネスで二代目や三代目のキャリアプランを落合准教授が分析した結果、やはりまず武者修行から始めることが多いようだ。先の三井家の宗竺遺書には、後継者はまず丁稚奉公から始めるべきと説かれている。そして、徐々に本丸に戻して、実績をあげたら、中枢に引っ張り上げる。そんなプランが見えてくるという。

1.3 ファミリービジネスではイノベーションが起きやすい
1) 2代目は外の意見をよく聞く

経営者は孤独なものだ。2代目でも、やはり先代の意見も聞くし、従業員や番頭レベルの意見も聞く。でも、そこには遠慮があったり、距離感があったり、打算があったりする。しかし、外部の団体の仲間とはそんなことを気にせずに付き合える。外部のコンサルタントの意見をよく聞くのも2代目の特徴だ。経営コンサルタントを目指すのであれば、そういう2代目経営者の孤独と悩みを理解し、コーチングするスキルが必要かもしれない。

2) 武者修行の成果
2代目を最初から自社で勤務させると、ろくなことはない。それよりも、同業他社で実力を磨かせるとか、銀行系に就職させるとか得意先(下流)や仕入れ元(上流)で鍛えてもらうことが有効だ。そして、それは遠慮なく鍛えてくれるだけでなく、それが人脈となって後から活きていくことだ。そんなところからも事業が発展したり、イノベーションが生まれたりすることはあるだろう。

3) イノベーションのDNA
これは自分の勝手な理解だけど、創業者の背中を見た2代目には、やはり程度の差があれ、イノベーションのDNAは引き継がれている。浜松のイノベーターのことを調べた時にはびっくりした。現代を代表する大企業は19世紀から20世紀にかけて相次いで生まれている。これは地域的な特徴もあるのかもしれないけど、やはり父親の背中を見て育った面もあると思う。
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2. 渋沢栄一の想い
2024年度を目途に1万円、5千円、1,000円の各紙幣のモチーフが刷新される。一万円冊は20年ぶりに福沢諭吉から渋沢栄一に変わる。渋沢栄一に関する話も興味深かった。

2.1 功績
1) 500社の設立に関与

渋沢栄一は日本資本主義の父と呼ばれている。 1840年(天保11年)2月13日から1931年(昭和6年)11月11日と、江戸時代、明治時代、大正時代、そして昭和時代を駆け抜けた日本を代表する実業家だ。渋沢栄一が手がけた会社は500社を超える。後半には、渋沢栄一が名前を連ねるだけで素晴らしい企業という評価を得るぐらいのブランドになったのではないか。

2) 経営者を育成
渋沢栄一は投資家ではない。実業家だ。もっと言えば、西洋の盛況ぶりを見て、日本を変えねばと商業面から革新を続けたイノベータだったと思う。したがって、単に出資するだけではなく、社外取締役になったり、経営者の指導をしたりした。渋沢栄一は、儲けることを否定していない。しかし、利益は独占するのではなく、社会に還元すべきという考え方だ。この辺りはいわゆる当時の三菱などの財閥と大きく異なる点だ。公益を追求するために、資本と人材を集め、登用し、任せていく。そんな理念に共感する人が日本を近代化に導いてくれたことに感謝したい。
 出典:会社は一体誰のものか!?ーー 渋沢栄一vs岩崎弥太郎の対立 | 【隔週火曜日更新】あの名言の裏側

3) 近代日本の父
KDDIの前身の一つである国際電信電話株式会社渋沢栄一の薫陶を受けた会社の一つだ。日米間の通信状態を改善するために、渋沢栄一らは1919年に日米電信株式会社を設立した。その後渋沢栄一を設立委員長として、1925年に日本無線電信株式会社が設立した。そのあと紆余曲折の末に1953年に国際電信電話株式会社が設立した。初代社長は、渋沢栄一の孫である渋沢敬三(1896年8月25日から1963年10月25日)だ。渋沢敬三は第16代の日本銀行総裁を務めている。
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 出典:通信|渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図|渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団

2.2 ルーツ
1) 1840年生まれ

渋沢栄一は、1840年(天保11年)年2月13日に現在の埼玉県深谷市血洗島で生まれた。血洗島の由来を聞かれることも多かったようで、「赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕をひしがれ、その傷口をこの地で洗ったという」などと説明したらしい。渋沢家は藍玉を生業としていたが、父には商業的な才覚があったようだ。渋沢栄一自身も14歳の時からは藍葉の仕入れを行ったという。

2) 一橋家の幕臣
父は教育家でもあり、渋沢栄一は5歳の頃から読書に励み、7歳の時には四書五経日本外史を学んだ。21歳の時に、江戸に出て北辰一刀流の千葉栄次郎の道場に入門し、剣術修行を行った。長州と連携して幕府を倒すという計画をたてるなどやんちゃな時代もあった。縁あって一橋慶喜に仕える。主君の慶喜が将軍となった1866年(慶応2年)12月から1867年(慶応3年)12月までの1年間は、将軍の名代として万博に出席する徳川昭武随行した。岩倉具視使節団が海外視察する4年も前のことだ。若い渋沢栄一がどれほどのカルチャーショックを受けたかは想像に難くない
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 出典:http://www.education.fukaya.saitama.jp/shibusawa/shibusawa.htm

2.3 渋沢栄一の苦悩
渋沢栄一について語り出すとキリがない。落合准教授もぜひ渋沢栄一について研究すると面白いと勧められる。なぜかと言えば、文献が豊富なことだ。また、携わった500社の企業の多くは今も活躍しており、それらの企業の伝記などから渋沢栄一をみるのも勉強になるという。そして、大変だけど、出来るだけ原点を見るべきだという。あえて、ここでは渋沢栄一の苦悩を想像してみたい。

1) 国立第一銀行と日本銀行
渋沢栄一は欧州の視察から帰国すると、静岡藩に出仕する。そして、フランスで学んだ株式会社制度を実践するために、1869年(明治2年)1月に商法会所を設立した。この商法会所は日本初の株式会社だ。その後大隈重信に説得されて大蔵省に入省して官僚となる。当時の民部省改正掛として、度量衡の制定、国立銀行条例の制定に参画した。退官したのち、1873年(明治6年)日本最古の銀行である第一国立銀行の初代頭取に就任して、実業界を牽引する。日本銀行を設立したのは1882年(明治15年)10月10日だ。第一銀行は、合併等をへて現在のみずほ銀行だが、都銀を設立するために退官した訳ではない。日本に銀行システムを導入して、産業を興すインフラとして第一銀行を設立したのだと思う。しかし、なぜ中央銀行の座を後発の日本銀行に奪われてしまったのか。この辺りは、落合准教授も明言は避けられたが、色々とドラマがあったのだと思う。この辺りを研究するのは興味深いかもしれない。
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 出典:慶応4年5月30日 大阪府に商法会所を設置 | MBC NEWS TOPICS

2) 株主の2つの無責任
渋沢栄一は理念を持った実業家だった。単に儲ければよいというような考え方ではない。現在の日本の商法では企業は株主のものとされている。しかし、渋沢栄一は株主の無責任として、次の2つのを指摘していた。一つは、投資家は、事業を育てる側面はあるが、利益を得るために事業を売却することがある。そして、株主は有限の責任しか持たない。つまり、渋沢栄一は、事業に投資するなら、それが成功するように、事業をしっかりと育て、応援し、協力するのが投資家だと考えていたのではないだろうか。

3) コーチン
これは苦悩ではなくなく、渋沢栄一の楽しみだったのかもしれないが、500社の経営者のよき相談役になっていた。朝の6時には渋沢栄一の自宅の前に行列ができたという。そんな時も、課題に対する答えを示すのではなく、その経営者に考えさせるために、とことん話し相手になってあげたようだ。人脈や経験も豊富なためアドバイスもしたとは思うが、渋沢栄一は経営者を育てることを主眼としていたので、今でいうコーチングに徹していたのではないかと思う。落合准教授も同じ意見のように感じた。

3. 手法的教育と理念的教育
落合准教授は、例えばMBA教育でも手法的な教育と理念的教育がある。両者がバランスされているのが、望ましいが、現状は前者偏重の傾向があるのではないかと指摘される。なぜ、そうなるのかと言えば、手法的な教育はしやすい面がある。ハーバードビジネススクールでも最近は理念的教育が見直されている。ハーバード大学で教鞭したければ理念的教育を研究すべきだ。日本人が優秀だったのは、この理念教育を重視していたからだと思う。逆に、近年日本の国力が低下しているのもこの理念教育が足らないのではないか。愛国心とか愛社精神と言うと時代錯誤のように言われるかもしれないけど、自分自身や自分の家族、社会、会社、そして国を愛することが悪いはずがない。日本では1000年の昔から寺子屋では実語教を習ってきた。実語教については、これまでも何度かこのブログで書いてきたが、知らない人が多いと言う状況は全く変わっていない。渋沢栄一が幼少の頃に寺子屋に通っていたのか、そこで何を学んだのか?実語教も習っていたのか、そんなことを確認したいと思った。
 出典:hiroshi-kizaki.hatenablog.com

まとめ
イノベーションの歴史ということで、今回は米倉先生ではなく、アドホックな話題だったが、予想以上に面白かった。遅刻したのが、本当に申し訳ない。もう一つ気になる点は宿題だ。どうも3Mのケーススタディについてまとめるように宿題が出たようだ。論文の資料ももらった。でも、どのような切り口で、どの程度まとめれば良いのだろう。もう少し情報を集めてから宿題に取り掛かろう。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。