LuckyOceanのブログ

新米技術士の成長ブログ

映画「キューポラのある街」を見てびっくり ^^)

はじめに
トランプ大統領金正恩朝鮮労働党委員長の会談は決裂したことが報道されている。北朝鮮と米国の交渉はそう簡単ではない。ハードネゴシエータートランプ大統領が安易に妥協しなかったのは良かったのではないか。そもそも欧米の交渉術には、交渉が難航した時には、一度席を立つというのがある。これもディールのワンステップのつもりかもしれない。明日・明後日が出勤なので今日はその代休だ。自由な時間ができたので、少し調べていたら、吉永小百合浜田光夫が主演した「キューポラのある街」が気になった。

YouTubeでの映画鑑賞
以前だとTsutayaでビデオを借りて観たものだが、最近はYouTubeで簡単に視聴できる。ただ、この映画の予告編やダイジェストは観れるけど、本編は無料では見れない。通常画質が300円、HDが400円だった。クレジットカードで精算するのはちょっと嫌だったので、auウォレットで精算した。パソコンで見るには通常画質で十分だった(笑)。

キューポラのある街
この映画の原作は、児童文学作家の早船ちよの小説だ。1930年生まれの浦山桐郎が監督して、1962年4月に公開されたので、浦山桐郎監督32歳の時の作品だ。主演女優の吉永小百合は、1945年3月生まれなので、この時はまだ17歳だ。今も綺麗だが、この時もキラキラしている。特に目力が凄い。wikiでは、「本映画は、在日朝鮮人北朝鮮帰国運動を肯定的に描いている、として批判されることがあるが、朝日新聞毎日新聞・読売新聞・産経新聞などが率先して、帰還事業を歓迎した製作当時の社会情勢を考慮すると、やむを得ないとして弁護する意見もある。」と記載されている。映画の中では「ほくせん(北鮮)」、「なんせん(南鮮)」と読んでいた。この作品を観るのは実は初めてだが、いろいろな問題に気づく。わずか57年ほど前のことなのに、はるか昔のことのようだ。今の子供達が見たらどんなことを感じるのだろう。今回観て感じたことを少し整理してみたい。

課題の整理
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「キューボラのある街」を観て単純に楽しめば良いのだが、どうも技術士の癖だろうか、課題と対応の方向性を整理したくなってしまう。職業病とご容赦ください。

(1) 家庭の問題
吉永小百合が演じる石黒ジュンは長女で中学3年生の設定だ。そしてその下に弟が二人いる。映画はジュンのお母さんが産気づくところから始まる。お父さんは職人だが、怪我をして、会社から解雇され大変な時期だ。酒に逃げるが、赤ちゃんは待ってくれない。失業と多産と貧困に悩まされて大変なことになる。「生意気言うな」と今では家庭内暴力(DV)とされるような画面も多いし、牛乳を盗んだり、工場から物を盗もうとしたり、飲酒したり、今なら大変だ。でも、そんな中でも感心するのは、機械化や自動化とともに、不要になる職人が多数出る状況でも、職人としての誇りを持っていた点だ。

(2)教育問題
中学生がパチンコ屋でアルバイトしたら今なら大変だ。ジュンは貧乏でボロ長屋だけど、ジュンが勉強を教える友達の家は二階建てでお父さんは車まで運転している。そのお父さんの口利きでジュンのお父さんも一度は転職するが、職人の誇りが保てないと退職し、またまた家庭は大変となる。そんな金持ちと貧乏人が混じって一緒に勉強する学校でも、先生と生徒の信頼関係はしっかりとできている。生徒も保護者も先生を信頼し、尊敬している。映画で描かれている学校や生徒の行動には問題ばかりだけど、気がついたら失われたものもあるような気がする。

(3) 社会問題
労働安全管理の仕事をしていると、映画に出てくる工場の安全管理にはめまいがしそうだ(笑)。安全教育の題材として、生徒に改善点を示せといえば、もう山ほど出てきそうな素晴らしい反面教材だ。また、中学生がビールを飲んで踊って、睡眠薬を入れられて強姦・暴力される図式は目を覆いたくなる。ただ、よくわからないのが、前述の北鮮帰還事業だ。なんだかよく分からないので、少し調べて観た。

北鮮帰還問題
Wikiで調べると次のような説明があった。キューポラのある街の時代背景は、1957年から1958年の鍋底不況等があったのかもしれない。
在日朝鮮人は、朝鮮半島の日本統治時代(1910-1945年)に様々な事情で日本本土へ移った者、韓国政府による虐殺(済州島4・3事件)から逃れるため、あるいは第二次世界大戦後に出稼ぎや朝鮮戦争の勃発などにより自ら密入国し、そのまま日本に居留した者が多かった。そうした人々の中には、日本人と同様に朝鮮特需などによる恩恵を享受した者もいたが、依然として生活に困窮する者も多かった。特に1956年(昭和31年)の生活保護費の削減と1957年(昭和32年)から翌1958年(昭和33年)にかけてのなべ底不況は貧困層の生計を直撃していた。
 出典:在日朝鮮人の帰還事業 - Wikipedia

日本本土に移った在日朝鮮人の推移
下のグラフは在日朝鮮人の推移だ。日本語のWikiにはなかったけど、韓国語のWikiに掲載されていた。これを見ると日本統治が初まる1910年時点ではわずかだったが、徐々に増加し1940年代には200万人近くまで急増している。そして、戦後には急激に減少するが、それでも60万人近くが残っていて、1990年にはこれが70万人近くに増加し、現在は減少傾向だ。
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 出典:https://ko.wikipedia.org/wiki/재일_조선인_북송사업

特別永住者(Special Permanet Residents)
先の図の赤いブロットも1990年の60万人から2010年には40万人まで減少している。これはいわゆる特別永住者だ。日本の統治下にあった南北朝鮮人や台湾等に祖先を持つ日本の居住者だ。日本統治時代には日本人として扱われたが、戦後その地位を失った。ただし、本人が希望して在日朝鮮人として日本国民になった人たちだ。
 出典:Special Permanent Resident (Japan) - Wikipedia

国策としての北鮮帰還事業
大好きなWikiを見ていると、在日朝鮮人への生活保護費の負担の増大や、日本人の6倍ともいう在日朝鮮人の高い犯罪率を背景として、日本国政府は北鮮帰還事業の検討を1955年ごろから開始した。当時の韓国(南鮮)は受け入れに消極的だったが、北朝鮮は積極的だった。1958年1月の『朝鮮の声』には、在日の北朝鮮人1700名のうち500名は日本に残し、1200人を強制送還することに合意したとある。強制送還は自由の侵害であり、国際法違反だと指摘を受けている。しかし、「キューポラのある街」でも、北送(北鮮帰還事業のこと)を概ね好意的に報じているし、映画の中でも「どこに行っても同じ。ここ(日本)以上に(北鮮)は貧しいはずがない。」と笑い飛ばしている。
 出典:在日朝鮮人の帰還事業 - Wikipedia

マスコミは北送を賛同
日本統治の時代に日本に移り、日本から離れることに躊躇する在日朝鮮人も多かった。ソ連の援助を受けて急成長するが、日本国内に密航して日本赤十字や列車を爆破するというテロ工作が摘発された時代なのでそうだろう。しかし、日本のマスコミは、在日朝鮮人の北送を「人道的な事業」と捉えて、新聞各紙は帰国事業を賛同したという。先陣を切って帰国した人たちに対する歓迎振りや、受け入れ態勢が完備されていること、復旧が目覚ましいこと、完全就職、生活保障と行った報道がなされ、それを信じて日本を去った人たちも多かったようだ。
 出典:在日朝鮮人の帰還事業 - Wikipedia

北鮮への帰還者の待遇
マスコミの報道を信じて北鮮に帰還した人が待っていたのはパラダイスではなかったようだ。北朝鮮には身分制度があり、帰還者はその最下位層の「動揺階層」として差別されたようだ。実際にどのように処遇されたのかは良く分からないが、北鮮に帰還した人たちは、現地住民からは妬みと差別から「帰胞」と呼ばれたようだ。体制を批判したりすると強制収容所に片道切符で送られた。このような実情が次第に明らかになって、在日朝鮮人で帰還する人は激減したようだ。
 出典:在日朝鮮人の帰還事業 - Wikipedia

小泉純也
この北鮮帰還事業の中心的な役割を果たしたのがなんと「小泉純也」だった。小泉純一郎の父親だ。小泉純也は、「在日朝鮮人の帰国協力会」の代表委員に就任して、積極的に活躍したという。写真下(右)は小泉純也の義理の父である小泉又次郎であり、写真下(左)は、一番左が小泉純一郎の若い頃、その右が高齢の小泉又次郎、左から三番目が小泉正也、そして一番右が小泉純也だ。小泉純一郎は、父の小泉純也にそっくりだ。この小泉純也は苦労人で、鹿児島生まれだが、小学校を出ると丁稚奉公をしながら夜間の学校を卒業して朝鮮銀行に勤め、さらに代議士の書生として夜間の大学を卒業する。小泉純也の父親は在日朝鮮人というが、非常に優秀だったのだろう。さらにイケメンなので最強だ。
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 出典:小泉又次郎 - Wikipedia

小泉家の華麗なる家系図
下の図を見ると小泉家の華麗なる家系が読み取れる。石原家とも遠縁で繋がっているのは面白い。小泉又次郎の父親は飛び職人だったが、気っ風と腕っ節を誇る親分肌で横須賀海軍随一の請負師としてのし上がった。元芸者の正妻との間には子供がなく、妾の石川ハツとの間に生んだ長女が芳江だ。そして、この芳江が恋に落ちたのがイケメンの鮫島純也だ。又次郎は強硬に反対したが、駆け落ちをして結ばれる。そして、その長男が元首相の小泉純一郎だ。2002年9月に小泉純一郎首相(当時)が北朝鮮を電撃訪朝したが、その背景には父親である小泉純也のルートもあったのだろうか。
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 出典:http://koizumifamily.problo.net/248.html

横田めぐみさんの動向
1977年11月15日の夕方、新潟市の中学に通い、バトミントンの部活を終えて自宅に戻り、あとわずかのところで失踪した。すでに40年以上が経過している。当時13歳だった横田めぐみさんはどうしているのだろう。金正恩の母親という噂がネットで流れているが本当なのだろうか。何れにしても早期に決着を本当に求めたいし、祈るばかりだ。

まとめ
キューポラのある街はもっとふんわりした物語かと思ったけど、実際に見ると当時の日本の事情や北送問題なども絡む社会的な映画だった。北朝鮮と米国との会合は決裂したが、これで終わりではない。今後も粘りつよく交渉をしていく必要がある。しかし、日本統治時代の話は学校ではあまり教えないし、教科書にもあまり説明がない。マスコミの報道も、本当の部分もあるし、ちょっと怪しい部分もある。どの情報が正しくて、どの情報が怪しいのかを判断するのは国民一人一人の見識だ。色々と考えさせる映画だった。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。