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霞ヶ浦を考える

はじめに
霞ヶ浦と聞いて何を連想されますか。霞ヶ浦は、琵琶湖に次いで日本で二番目に大きな湖だ。中学生だった時に、英語の教師だった担当の先生がなぜか霞ヶ浦を好きで、毎年のように訪問してスケッチをしていたという話を覚えている。いったい霞ヶ浦のどこをスケッチしたのだろう。中学を卒業してからお会いしていないが元気なのだろうか。

霞ヶ浦の概要
Wikiで調べると、霞ヶ浦は西浦、北浦、外浪逆浦(そとなさかうら)、北利根川、鰐川、常陸川から構成される。河川法では利根川の支川として常陸利根川と定めている。湖面積は220.0km2であり、琵琶湖の669.26Km2の3分の1程度だが、水際線延長は249.5kmであり、琵琶湖の234kmよりも長く日本最長だ。
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 出典:霞ヶ浦・水門は汚濁の遠因と云われる ( 自然保護 ) - 間違いが在れば改めましょう。 - Yahoo!ブログ

有史以前の霞ヶ浦
下の図は、産業技術総合研究所 地質調査総合センター作成の地質図をベースに、奈良文化財研究所の貝塚データをプロットし、さらに田中和之氏の「縄文後期~晩期」の水深図を重ねたものだ。そもそも有史以前では、霞ヶ浦の周辺は古東京湾の海底だったが、約2万年前には現在の霞ヶ浦ができたという。1万数千年前から温暖化による縄文海進が進み、海面が上昇して、入江が形成された。現在、通っている美浦村にも縄文の貝塚が多数発見されているが、その頃には我々の先祖が生活していた。アイヌ語系由来の地名も残るという。4-7世紀には、古墳が築造された。720年に書かれた常陸国風土記には当時の記述が残っている。当時は、鹿島や香取は流れる海として流海と呼ばれた。塩を生産したり、多くの海水魚が生息する内海だった。
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 出典:http://magnoliachizu.blogspot.com/2015/12/blog-post.html

利根川東遷事業
豊臣秀吉から江戸行きを言い渡された当時の江戸は、荒川や利根川渡良瀬川などが流入していて、現在の江東区江戸川区の多くは湿地だった。最大の河川工事は利根川江戸湾ではなく、銚子河口に移すものだ。これを利根川東遷事業と呼ぶ。徳川家康からこの事業を命じられた伊奈忠次は、忠治、忠克と親子3代でこの事業を行った。
東遷事業は、1621年(元和7年)に開始し、1654年(承応3年)に完成した。徳川家康江戸城に入城した1590年(天正18年)には、江戸は江戸湾内の交通の拠点ではあったが都市ではなかった。しかし、1609年(慶長14年)には、江戸の人口は15万人と京都の半分ぐらいまで拡大した。利根川の水運をはじめとする物流路の整備がその後の江戸の発達を支えた。
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 出典:利根川東遷事業 - Wikipedia

うなぎと霞ヶ浦
霞ヶ浦はかつてはうなぎを含めて水産物が豊富だった。土浦がなぜ大きな街なのか不思議だったが、かつては江戸や東京に水産物を供給する一大市場だったと聞いて納得した。うなぎは、水門の量と反比例して減少するという。ダム1基作るとウナギの漁獲量が5%減少するという。特に利根川系のうなぎが産卵できないために全国的な漁獲量が減少するという。yamba-net.org

水門と漁獲高
うなぎの漁獲高が激減している理由はなんだろう。利根川の漁獲量は、1967年に698万トンだったが、2010年は10トンまで激減した。霞ヶ浦の鯉養殖業によると、昭和30年代は、公務員の月給が7千円だった頃に3日で12万円稼げるほどうなぎが取れたという。当時に比べると今はゼロと同じという。利根川水系の水門は34基だったが、現在は67基と倍増した。特に、利根川の塩害を防ぐために設置された利根川河口堰が運用開始してから激減している。これが原因だとしたら、うなぎの漁獲高の激減の原因は水門となる。
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 出典:https://web.tsuribito.co.jp/enviroment/unagi1609

アサザ基金の活動
うなぎの漁獲高は、水門が原則開放から原則閉鎖に切り替わった段階から急減している。原則閉鎖に切り替えたのは、周辺の田園への塩害を防ぐためだという。最初、塩害と聞いた時には、霞ヶ浦に塩水が混じるのかと思ったら、そうではなくて、利根川常陸利根川が合流する下流の田畑への影響だという。そもそも、そこは塩害があった場所のはずだ。既得権を満たす意味なら、アサザ基金が提案するように常陸利根川の上流で取水して、それを下流域で利用すれば良いはずだ。もう一つの水源確保だが、工業用用水の需要は減少しているともいう。洪水対策なら必要な時に閉門すれば良いはずだ。これで解決かと期待したが、実態はもっと複雑だった。
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 出典:海と湖を結ぶ( うなぎの復活を目指して ) | 認定NPO法人 アサザ基金

利根川河口堰
総延長835mの水門だ。総事業費125億円。1965年(昭和40年)に着工し、1971年(昭和46年)に完成した。この上部は道路となっている。コメ作の推進と水源確保が目的だったが、コメは余っている。例えば、北北千葉導水路の送水は、計画の最大30m3/sに対して月平均3-4m3/sと約10分の1だという。河口堰を潰す必要も撤去する必要もない。ただ、過去のように原則開放にできないものなのだろうか。
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 出典:利根川河口堰と常陸利根川水門 まほらにふく風に乗って

マリンタウンの可能性
オーストラリアのゴールドコーストの高級住宅街のようなマリンタウンを創れないかと妄想する。ハウスの道路側には駐車場があり、ハウスの裏には運河があり、自家用の船を駐留する。霞ヶ浦を見ていると、マリンタウンを創る候補地のように見える。しかし、問題はヨットや船が太平洋や東京湾に船出できるかどうかだ。水門がガッチリと守る状況では船やヨットを通すことは難しいかもしれない。
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 出典:Google Map

第二の水門
利根川河口堰は厳しいかもしれないが、もっと上流にも水門がある。ここは船は通過できないのだろうか。まあ、それが可能となっても、霞ヶ浦にマリンタウンを創るのは簡単ではないだろう(涙)。できれば、陸路と海路と空路をミックスできるような理想的な場所を作って、そこに高級マリンタウンを再開発するなんてことは、このご時世に考えるのは難しいのだろうか。
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まとめ
霞ヶ浦について、過去から振り返り、東遷で活性化し、水門の整備で漁獲量が激減している現状を理解した。もっと明るい霞ヶ浦ブループランを創れないものだろうか。マリンタウンは厳しくても、海外から自宅まで水路で移動できれば興味を持つ人も多いのではないだろいうか。琵琶湖はヨットのメッカだが、霞ヶ浦はサイクリングロードでPRしている。霞ヶ浦にヨットは似合わないのだろうか。結論は出ない。もう少し考えてみよう。

以上