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いじめ問題を子供達はどう考えるのだろう?

はじめに
いじめ問題については、これまでも色々と感じることを書いてきた。特に、印象に残っているのはやはり、脳科学者の中野信子さんの指摘だ。この定義が正しいかどうかは別にして、この定義に沿って、子供達に考えてもらう機会があったと仮定して思うところを話してみたい。

1. いじめの定義
脳科学者の中野信子さんによると、いじめとは統治の失敗だという。つまり、組織には必ずルールがあり、組織には必ずそのルールを守らない人がいる。そして、組織はそのような人に対して組織のルールを守るように指導して、諭して、叱責して、それでもどうにもならない場合には組織から排除しようとする。昔の村社会で言えば、「村八分(むらはちぶ)」だ。

2. 村八分とは
Wikiによると、村八分とは、「村社会の中で、掟や秩序を破った者に対して課される制裁行為であり、一定の地域に居住する住民が結束して交際を絶つことである。」と説明している。村八分とは葬式と火事以外の交流は全て断絶する措置だ。村のルールが合理的かつ合法的とは言えない面があり、1909年の大審院判決では、村八分の行為は脅迫もしくは名誉毀損に当たるとされた。現在、多くの放送局では放送自粛用語となっている。しかし、Wikiで他の言語を見ると中国と韓国語しかない。村八分は悪い側面はあるが、良い面もある。つまり、交流を断絶しないということだ。日本以外の国では、組織のルールに従わない者がいたら、断絶するか、制裁するのではないか。完全に断絶することなく、制裁することなく、追放することなく、村のルールに従わないものも、火災と葬式だけは断絶しないというのは、日本の社会の暖かさではないだろうか。また、村八分も、制裁の程度によって半年とか、1年とか、永年とかを使い分けていた。非常に日本人らしい優しさと思いたい。では、諸外国ではどうするのかというとこれは、社会的制裁だろう。
(出典:Wiki、参考1)
2. 社会的制裁
これまた、大好きなWikiで調べると、社会的制裁は英語ではSocial controlと呼ぶ。制裁というよりも統制と訳した方が適しているように感じる。Wikiは言語によって表現が微妙に違うのが面白い。日本語訳の問題かもしれないが、ちょっと列挙してみた。文章は要約である点はご容赦願いたい。
(日本語)
社会的制裁とは法やルールによらない組織構成員に対する制裁行為だ。村八分などは社会的制裁の一例である。学術上、社会的制裁は刑事政策学等の分野で研究の蓄積がある。また社会学政治学では逸脱行動と関連して概念の整理がなされている。
(フランス語)
社会的統制とは、公的または非公式のすべての社会慣行を指し、社会集団の規範に従った個人の遵守を生み出し維持する傾向がある。社会的統制は支配と阻害につながる
(ドイツ語)
社会統制とは、1896年にアメリカの社会学エドワード・アルズワース・ロスが提言した。社会的統制は、集団による個人の意図的な指導を意味する。フォーマルな統制とインフォーマルな統制がある。社会統制とは社会や集団の規範から逸脱した行動を制限または防止するためのプロセスである。認知、励まし、批評、叱責等のコミュニケーションから疎外などの制裁などがある。
(英語)
非公式な社会的統制と公式な社会的統制がある。前者は一定の組織が組織内部に規範とルールを内在化させる。後者は、社会が不安定になることを防ぐために政府が強制するもの。フランスの社会学エミール・デュルケーム(Emile Durkheim)は、これを規制と呼んでいる。社会学者のエドワード・ロスは、このような社会的統制は法の支配よりも強く人間の行動を支配するという。
(出典:Wiki、参考2)

3. マスメディアによる社会的制裁
非公式の典型はマスメディアによる社会的制裁だ。マスメディアは警察機関ではない、検察機関でもない、ましては裁判所でもない。法治国家とは疑わしきは罰せずだ。これは「推定無罪」と呼ぶ近代法の基本原則だ。しかし、マスコミは、有罪が確定する前に特定の個人を攻撃することがある。これを「ペンの暴力」という。まさに、ペンは剣よりも強しだ。銃砲刀剣類所持等取締法で適用すべきはマスメディアによる社会的制裁ではないか(笑)。特に、冤罪の場合には悲劇だ。マスメディアが誤報の場合には訂正文が出ることもあるが、それで冤罪の被害者になった人は救われるのだろうか。自殺に至った場合には誰が犯人となるのか。こうした行為は「メディアスクラム」とも呼ばれる。視聴率や発行部数拡大のためとは思いたくないが、もし、意図的な社会的制裁があるとしたら、それは是正されるべきだが、憲法で保障する「言論の自由」との関係もあり、メディアの自助努力に期待するしかないのが現状ではないだろか。
(出典:Wiki、参考3)

4. 誰が悪いのか
4.1 構成メンバー

「いじめ」の話に戻ると、登場人物は一般には「いじめる人」と「いじめられる人」と「傍観者」の3層構造だ。文科省のホームページではいじめの4層構造として、次の4つを指摘している。私は、影の司令塔を含めた5層だと思うが、では誰が悪いのだろうか?
1) いじめる生徒
2) 観衆(はやしたてたり、おもしろがったりして見ている)
3) 傍観者(見て見ない振りをする)
4) いじめられる生徒
(出典:文部科学省、参考4)

4.2 いじめる生徒
常識的に考えれば、「いじめる生徒が悪い」だろう。例えば、中学生の生徒に、「今まで誰かをいじめたことはありますか?1回もないという人がいたら手を上げてください」と聞いたとする。いったいどの程度の生徒が挙手するだろうか?ここで挙手する人は本当にいじめをしたことはない生徒かもしれない。しかし、いじめをしたかどうかを決めるのは、いじめた本人ではなく、いじめられた被害者だ。従って、誰かがいじめられたといえば、そこにはいじめが発生したことになる。また、本人は全くいじめたつもりがない場合でも、被害者はいじめられたと感じているかもしれない。つまり、挙手した人は、自分が加害者になるというリスクを知らない人、人の気持ちがわからない人となる。一方、挙手しなかった人は良いのかというとそんなことはない。どんな理由があったとしても、いじめるべきではない。なぜいけないのかといえば、倫理的な問題もあるが、将来自分が被害者になる可能性があるからだ。ネットのいじめは目に見えないのでわかりにくいというが、それは間違っている。SNSのいじめならスマホの画面に表示される。そして、それはスクリーンショットすれば証拠として残る。いじめられた人から証拠とともに訴えられたらどうしますか?人をいじめることは、将来自分が社会的な制裁を受けるリスクを作ることになりますと言ったらどんな反応を示すのだろう。

4.3 観衆
「いじめの現場にいて、積極的にそのいじめをはやしたてたり、おもしろがったりして見ていたことがありますか?」という質問はなかなかできない。でも、今までそんな観衆になったことは一度もない人は挙手してくださいと聞くと、いったいどの程度の人が挙手するのだろう。組織のルールに従わない人を指導したり、諭したり、でも、それでも従わない人がいた時に、誰かが「いい加減にしろ!」と怒って喧嘩になったり、「あの人、あんなことをした。ありえない!」と憤慨している。その場合に、それが理解出来る場合には、「そうだね」と同調するのではないか。その場の空気を読んで、適切に行動するのではないか。そして、そのような行動をすることは悪いことではない。「そんなことない」と反論するのは勇気がいるし、そんなことを言ったら、今度は自分がいじめの対象になるかもしれない。挙手しなかった人は単に正直な生徒かもしれない。では、どのように行動すべきなのか。観衆でいれば安全なのか。いじめられた人が、あの人も一緒になったいじめたと発言したら、あなたはその瞬間に観衆ではなく、加害者として罰せられる可能性があるのですと言ったら、どんな反応を示すのだろう。

4.4 傍観者
傍観者とは、本来は傍(そば)で観る人のはずだ。しかし、文科省の定義では見て見ぬ振りをする人だ。定番のWikiを見ると、傍観者はないが、傍観者効果(bystander effect)があった。社会心理学の用語であり、ある事件に対して自分以外に傍観者がいる時に率先して行動を起こさない心理だという。そして、その理由は次の3つだという。つまり、自分が責められないように防御する利己的な行為だ。
 1) 多元的無知 - 他者が積極的に行動しないことによって、事態は緊急性を要しないと考える
 2) 責任分散 - 他者と同調することで責任や非難が分散されると考える
 3) 評価懸念 - 行動を起こした時、その結果に対して周囲からのネガティブな評価を恐れる
では、傍観者はどのように行動すべきなのか。いじめの現場で、それをやめろという勇気もない。そんなことを言ったら、やはり次のターゲットが自分になるかもしれない。何をカッコつけている。自分は何様だ。そんな罵倒やいじめは怖い。やはり避けるべきだろう。しかし、傍観者ならば、傍観者として、しっかりその現場で起きていることを見続けて欲しい。そして、本当に何が問題なのか。何か悪いのか。どうすれば良いのかそれをしっかりと考えて欲しい。いじめられている人に対して、騒動が終わった後に、大変だったね。何もできなくてごめんね。でも大丈夫だよ。味方だよと声をかけてあげることはできないか。大丈夫か?と一言でもいい。肩をポンとタッチしてあげるのもいいかもしれない。みんなが心配してくれていると感じるだけで、ちゃんと見ている人がいると思うだけで救われるケースもあるのではないだろうか。
(出典:Wiki、参考5)

4.5 いじめられる人
これも生徒には聞きにくい質問だが、「軽いものを含めて、今までいじめにあったことがないという人はいますか?』と聞いたらどの程度の人が挙手するのだろう。挙手する人は多くないのではないだろうか。しかし、いじめられる人は単なる被害者なのだろうか。本人の意思でどうしようもないことに対して叱責するのは絶対ダメだ。しかし、そのようなケースではない場合には、何らかの理由があったのではないだろうか。もう時効だと思うが、自分は中学校を卒業して、15歳で学校の寮に入った。全寮制ではないので、入寮したのは全体の4分の1ぐらいだ。多くは、通学に1時間以上かかるので入寮した生徒が多い。殆どの生徒は真面目だし、素直だ。しかし、中には変な生徒もいる。そして、1−2ケ月も経つ頃には、制裁イベントが行われた。幸い、自分は被害者にも加害者にもならなかったが、今なら問題になるかもしれない。日本は法治国家だ。どんな理由があろうと、そんな社会的な制裁をする権利は誰にもない。もっとも深刻な事態は、明らかないじめにあっている子ども自身がいじめと認識することを拒否するケースかもしれない。これは本能的に、最悪の事態(いじめられている)を本人が許容できないため、本人の脳が冷静な認識を拒否することだという。変だと思ったら証拠を残しておくのも良いかもしれない。本人には苦痛かもしれないが、本人がいじめと認識できていなくても、20年以内に冷静な認識が出来るようになったら、そのいじめは無効にはならないという。また、いじめられた人はどうすれば良いのか。難しいかもしれないが、自分の味方や友達を作ることだ。そして、自分の居場所を見つけることだ。でも、どうしても、その集団の文化に合わない、居場所がないならば、所属する集団を変えることだ。極端なことを言えば、別に学校に行かなくても、高等学校卒業程度認定試験には満16歳になれば受験できるし、これに合格して満17歳になれば大学を受験することもできる。最近は海外の大学にもインターネット入学が可能だ。将来の夢を持って、それに対して努力すれば、道は必ず開ける。目の前の壁は一生崩れないと思うものだけど、それを乗り越えると大したことないことがわかる。人生とはそんなことの連続だ。
(出典:Wiki、参考6)

5. 悪質ないじめはなぜ起きるのか
5.1 ミルグラムの実験

ミルグラムの実験については以前もこのブログで紹介したが、人間というものは絶対的な権限を持つ人から命令されて、それに従わざるをえない状況になると、信じられない行動に及ぶものだ。
hiroshi-kizaki.hatenablog.com

5.2 司令塔
人間の行動には、自律的な行動と他律的な行動がある。いじめの加害者が自律的に行動しているのか、他律的に行動しているのかは慎重に見極める必要がある。自律的に行動しているのであれば、その構図は比較的単純だし、原因や対策を講じることも難しくはないだろう。しかし、これが他律的な場合には慎重な対応が必要だ。つまり、加害者は、自分の意思ではなく、誰かに指示されて、命令されて、もしくは示唆されたのかもしれない。そんな場合に、その加害者を罰しても問題は解決しない。なぜなら、別の人間が加害者になるだけだ。しかし、この司令塔を突き止めるのは簡単ではない。一般にこの司令塔は勉強もできて、生徒会でも指導的な立場にいるいわゆる優等生かもしれない。両親が有名人だったり、PTAの会長だったり、資産家のご子息かもしれない。そして、証拠はなかなかない。誰かが司令塔の意思を忖度して、行動に移す。でも、司令塔は本当はそんなつもりはなかったのかもしれない。間違った忖度をしたのかもしれない。まるで現在の森友問題ではないか。では、司令塔はどうするべきなのか。司令塔になる人間は一定の能力と人徳がなければ務まらない。そして、そんな司令塔は組織を良い方向にも悪い方向にも導くことができる。周囲に影響を与えることができる人は、その影響力に気づくべきだ。そして、悪い影響ではなく、良い影響を周りに与えるように努力すべきだ。苦しいことかもしれない。しかし、それができる人は多くはない。そして、自分のことだけではなく、自分が所属する組織全体を良い方向にリードしてほしい。本当にそう思う。

6. 多様性の許容
校則が厳しい学校がある。全国の学校を訪問してお話をしているが、生徒の整列具合を見るだけでその学校の雰囲気は否応なく分かってしまう。時間前にちゃんと整列して、おとなしく待っている学校もあれば、時間になっても集合しないばかりか、生徒を指導する先生の説教が5分も10分も続くこともある。説教はいいから早くマイクを渡してほしいと思うこともある。大切なことはメリハリ感だと思う。勉強するときは勉強する。遊ぶときは遊ぶ。休むときは休む。そんな風にキビキビと行動できる学校の生徒は大丈夫だと思う。でも、そうでない学校の生徒でも、話をしているとちゃんと聞いてくれることがある。ある定時制の高校を訪問した時に、最前列の机で最初から寝る準備をしている生徒がいた。でも、話を始めると、頭は机の上に突っ伏しているけど、ちゃんと視線はスクリーンを向いている。そして、講演が終わった後にその生徒に「どうだった?」と感想を聞いたら、「寝るつもりだったのに、眠れなかった。」という。高校生で悪ぶっていても、まだまだ可愛いものだと思う。そんな生徒たちには、目を輝かして何かに夢中になるような目標を是非見つけてほしいと思う。これまでは勉強の成績で人間の優劣を判断したかもしれない。でも、AIが進歩すれば、知能はAIがやってくれる。もっと人間的な魅力や能力を磨き、それを発揮することで輝ける生徒もたくさんいるのではないかと思う。そして、そのためには、学校側も生徒に多様性を認めてほしいと思う。髪の毛の色まで校則で規制することは正しいのだろうか。海外には、茶毛の人も赤毛の人も金髪の人もいる。個人の努力ではどうしようもないことを校則で規制することは、指導ではない。生徒が多様性を理解できるように、学校側も多様性を理解すべきだと思う。

7. いじめ問題
いじめ問題はあってはいけない。でも、それって無理だろう。程度の差はあっても、組織のルールを守らない人はいるし、そんな人を指導しても、注意しても、直さない人もいる。そして、そんな時に組織は組織を統制するために行動を起こす。いじめを是認するわけではない。いじめは無くせないという前提に立つべきだと思う。そして、今も、どこかで、誰かが誰かをいじめているかもしれない。そんな状況を見ないことにするのではなく、なかったことにするのではなく、大切なことは傍に寄り添って見守ることではないだろうか。Twitterに生徒が写真を投稿していたと大騒ぎしていることがあった。どんな写真だったのかを確認すると普通の写真だった。でも、Twitterの利用を禁止しているからダメだ。学校パトロールでも指摘されて問題となっている。しかし、Twitterを利用することが問題なのか。Twitterを用いて不適切な投稿をしていたらそれが問題なのではないか。Twitterを使うなと校則で禁止するのではなく、日々生徒がどんな投稿をしているかを見守り、ちょっとエスカレしてきて、やばいなっと感じたら、その時に、その生徒に「ちょっと抑えないと問題になるぞ」と忠告することだ。Twitterの利用を禁止しても、生徒はTwitterの利用は止めないだろう。でも、先生に見られているのを知ったら、不適切な投稿は控えるのではないか。今や、社会の良い影響を与えるインフルエンサーは就職でも有利となることもある。Twitterが悪いのではない、SNSが悪いわけではない、スマホが悪いわけではない。不適切な利用があればそれを是正して、適切に活用するように指導すべきだと思う

終わりに
2年半にわたって全国の学校を回った。多分、年間200講座として、500講座はこなしただろう。かつて伝説の山口良治監督のサイン入りポスターが貼ったある伏見工業高校に行った。自分が中学生の頃は荒れていたが、今は皆おとなしいし、生徒は挨拶もちゃんとする。今の子供達は皆素直だし、真面目な感じがする。しかし、自分の信念や夢や目標を語るといったことは苦手だ。就職試験以外の局面では生徒は常に個性を出すなと教わるという指摘もある。海外の学生から、日本の歴史を聞かれても理路整然と答えることのできる生徒はいるのだろうか。そもそも日本の正しい歴史を教わっていない気がする。子供達には是非、世界にはいろんな人がいることを知って、ワクワクするような体験をいっぱいしてほしいと思う。リアルに楽しいことがいっぱいあることがわかれば、陰湿ないじめはなくなるのではないか。楽観論かもしれないが、リアルを充実させるには、やはり夢や志を持つ社会にすることが我々大人の責務のように思う。

以上

最後まで読んでいただきありがとうございました。

参考1:https://ja.wikipedia.org/wiki/村八分
参考2:https://en.wikipedia.org/wiki/Social_control
参考3:https://en.wikipedia.org/wiki/Media_scrum
参考4:http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/040/shiryo/06120716/005.htm
参考5:https://ja.wikipedia.org/wiki/傍観者効果
参考6:https://ja.wikipedia.org/wiki/高等学校卒業程度認定試験