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新米技術士の成長ブログ

日本の起源:そばの起源。江戸時代に開花。

飛騨古川のお蕎麦
本日(11/29)は、飛騨市を訪問している。待ち合わせの時間まで少し余裕があったので、飛騨古川駅に途中下車して、飛騨の匠の技を展示している「飛騨匠館」に向かった。その前に、その向かいにある飛騨古川の「福全寺そば」でそばを頂くことにした。土日だと行列ができていてなかなか入れないが、本日は平日なので、すぐに入れた。そばは、7寸、8寸、9寸等がある。7寸は子供向け8寸は普通、9寸は大盛りだ。自分は、少し控えめに7寸にした。手前の小さな半円形は大根だ。お出汁がしみていて美味しい。食べ方は自由と言いながら、もりそばの「お召し上がり方」が書かれていたので、それに沿って頂いた。お塩も美味しい。わさびも効いている。なかなかのものだ。飛騨高山で聞いたところでは、高山はうどんもあり、そばとうどんは半々ぐらいということだったけど、飛騨はそばの方が多いのだろうか。
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(出典:筆者が撮影)

そばのルーツ
先日、掲載した麺の起源では、切り麺の系にうどんとそばが位置付けられてる。そばも切る麺なのでもちろん異論はない。しかし、うどんとそばでは材料が異なっている。小麦粉を材料にした麺類をこのような系統図で整理するのは賛成だけれども、小麦粉とそば粉では、そもそもの材料の伝播ルートが異なる可能性もある。

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(出典:日清食品のホームページ、参考1)

ソバの実の特徴
蕎麦は麺類、ソバはその材料としてのソバの実を示す。ソバの実は寒冷地や酸性土壌、肥沃度の低い土壌でも3ヶ月程度で短期に栽培できる。このため、日本では長く飢饉のための非常食(救荒作物)の扱いだった。そもそもソバの実は外来種だ。では、どこからソバの実が日本に伝播したのだろう。

1) 東南アジア起源説
ソバの実はワールドアトラスの文献によると紀元前6000年頃に東南アジアで栽培され、そのあと中東、ヨーロッパ、中央アジアに広がったという。

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(出典:ワールドアトラス、参考2)

2) 中国雲南省起源説
村井氏と大西近江氏は1980年から2000年にかけてインド、チベット四川省などの品種のDNAを調査して、中国雲南省を起源とし、中国北部を経て、朝鮮半島を経由して日本にいたった伝播ルートを報告している。

3) その他
スイスの植物学者であるド・カンドルが中国北部からバイカル湖南部付近が起源とする説を提出している。シベリアからの北ルート、中国からの九州へのルート、朝鮮半島から対馬へのルートなどがある。これ以外にも、黒滝江上流説、ネパール説、プータンなど諸説があるが、現在は、中国雲南省起源説が有力だ。バイカル湖の説も興味深い。

縄文時代にソバの栽培
高知県縄文早期時代の遺跡からソバの花粉が見つかった。縄文早期とは紀元前7300年前のものだ。ワールドアトラスによれば紀元前6000年前をソバの起源にしているので、ソバはあったが、それを食するようになったのが6000年前ということなのか。お米の最も古い発見は縄文時代前期なので、紀元前4000年頃だ。当時の日本ではお米よりも古くからソバを食べていたのだろうか。さいたま市岩槻の遺跡からもソバの実が発見されている。これは縄文時代晩期なので、紀元前1000年から500年だ。
(出典:ソバヤコム、参考3)

北海道で見つかったソバの遺跡
北海道では、縄文時代前期末(紀元前3500年前頃)の南茅部町ハマナス野遺跡から一粒のソバが出土した。これは大陸起源の最も古い栽培植物だ。縄文時代に北海道でソバが栽培されていた証左だ。ソバは朝鮮半島を経由して日本に伝播したルートが有力とされているが、本土からさらに北海道まで北上したのだろうか。サハリンから北海道に伝播したものが本土に伝わったという可能性もあるのではないか。

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(出典:雑穀栽培から見た北海道と大陸、参考4)

ソバの調理法
日本では、ソバをこねて、面状になったものを包丁で切る蕎麦切りをして、さらに茹でる。このような調理法をしているのは日本だけだ。日本以外の国では、粥や餅、焼き菓子、押出麺、そばがきとして食料に供している。フランスでは、ソバクレープといったお洒落な食べ物になっている。普通のクレープよりもポキポキしているが、美味しいようだ。
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(出典:FC2ブログ、参考5)

世界のソバの生産高
国連の調査によると、2014年時点のソバの全世界の生産高は約200万トンだ。最大生産国は中国で約70万トン、ついでロシアが66万トンで、さらにウクライナ、フランスなどが続く。日本は圏外だ。一方、一人当たりの消費量で見ると、下の図のようにリトアニアが7.4(kg/人)とダントツだ。ついで、ロシア、ウクライナカザフスタンと続く。東欧での消費が多い。日本はフランスについで、7位に入っている。この8月にバルト三国を旅行し、遺伝子的に親しみを感じることが多かった。リトアニアは、杉原千畝ユダヤ人を救出するために命のビザを発行し続けたことが美談となっている国で、国民性は陽気だ。現地にはいわゆる日本のような蕎麦屋はないが、現地で蕎麦屋を開業したら、ソバ好きのリトアニアに受け入れられるだろうか。

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(出典:Buckwheat、参考6)

日本における蕎麦屋の分布
話を国内に戻そう。蕎麦屋が最も多い県はどこだろうか?タウンページに掲載されているお店のランキングでは、長野県がトップだ(2014年)。全国には24,924店舗あり、人口10万人あたりの店舗数は平均で約20軒だ。全国的には5000人に1店舗という比率だ。長野県ではどう52.26軒なので、全国平均の約2.5倍だ。店舗数ではさすがに東京都がダントツだ。今住んでいる愛知県には立ち食いそばがほとんどないので困る。このランキングでは、28位で10万人あたり16.3軒だった。ちなみに最下位は高知県で34軒、10万人当たりでは4.56軒だった。高知といえば、約9000年前の遺跡からソバの花粉が出るなどソバとは縁が深いのに残念な結果だ。ただ、調べると高知県にも美味しい蕎麦屋があるようだ。
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(出典:都道府県別統計とランキングで見る県民性、参考7)

平安時代の貴族は蕎麦が嫌い
ソバに関しては、『類聚三代格』には723101付けで、ソバ栽培の奨励を命じた太政官符を掲載されている。つまり、奈良時代には蕎麦の栽培は本格化していたようだ。また、平安時代中期の歌人である道命(藤原道長の甥)が蕎麦料理に対して、「食膳にも据えかねる料理が出された」という和歌を詠んだという。平安時代の貴族層はソバを食する習慣がなかったということになる。つまり、ソバは弥生人の食文化ではなく、縄文人の食文化として日本に根付いたのだろう。この時代のソバは農民が飢饉に備える非常食だったようだ。また、蕎麦の語源は南北朝時代に書かれた『拾芥抄』だ。蕎麦との肉との食い合わせを禁じている。
(出典:Wiki、参考8)

鎌倉時代には「そばがき」へ
本格的な蕎麦を作れるようになるのは、中国から伝来した挽き臼を使うようになったからだという。普及していた小麦と合わせることで蕎麦を美味しく食することができるようになった。

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(出典:電車の旅、参考9)

江戸時代に開花した蕎麦文化
蕎麦を麺として食するようになったのはいつ頃からだろうか。慶長19年(1614年)の『慈性日記』に"そば切り"の文字が出てくるので江戸時代になってからだ。ただし、伊吹山麓の大平寺の付近では江戸時代以前よりそば畑を耕作していた。収穫後は、石臼を使って粉にし練り上げ"そば切り"にして食べていたらしい。奈良時代の伊吹は僧の修行場であった。唐は618年から907年まで中国の王朝であったが、その唐の国から伊吹に来た修行僧がそばを持ち帰り栽培したのが日本での蕎麦の始まりという説もある。しかし、当時の唐の国に蕎麦を食するという記録はあったのだろうか?平安時代の貴族に蕎麦を食する習慣がなかったことを考えるとちょっと疑問を感じる。
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(出典:伊吹山情報と保全活動、参考10)

江戸の蕎麦屋御三家
世界の誇る蕎麦文化は江戸時代に開花した。日本蕎麦の三大系統といえば、「更科蕎麦」「藪蕎麦」「砂場蕎麦」だろう。蕎麦屋は江戸に受け入れられ、1860年には江戸府には3763店のそば屋があったらしい。
1) 更科蕎麦は、信州の行商人であった清右衛門が1789年に開業した蕎麦屋だ。信州からの直売として、江戸で大人気になったという。ソバの実の中心の身を使ったという。日本酒で言う吟醸大吟醸の製造法を応用したのだろう。麺は白く上品な味だったようだ。
2) 藪蕎麦は、ソバの実の皮は薄緑色だが、その皮で薄緑色にした蕎麦だ。今でもうどんが白いが、蕎麦は薄緑なのはこの藪蕎麦の製造法が元祖なのだろう。

3) 砂場蕎麦は、大阪(当時の大坂)の老舗蕎麦屋だ。1751年に出版された蕎麦膳書には、薬研掘大和屋大坂砂場そば」と記載されている。個人的には、かき揚げせいろが好きだ。このような天ざるは1955年に室町砂場で開発されたという説がある。
(出典:そば研究、参考11)

現代につながる蕎麦文化
明日から12月だ。大晦日には、年越し蕎麦を頂くが、このような習慣が定着したのも江戸時代中期だという。一説には、金銀細工師が飛び散った金粉や銀粉をそば粉を使って集めていたらしく、その縁起を担いで蕎麦を節目のタイミングで食べるのが始まりだと言う。それ以外にも諸説ある。
・細く長く伸びた蕎麦は、寿命を延ばし、運を伸ばす説
・博多の承天寺でそば餅を振る舞ったら翌年から運が向いた説
・そばの実が、三稜(ミカド)なことから帝(ミカド)に通じる説
・そばは切れやすい。苦労や厄災をさっばりたちきる説
・そばは風雨に当たっても翌日には立ち上がるのにあやかる捲土重来説
江戸時代には、武士階級は白米を食べるようになり、その結果脚気(かっけ)が流行した。蕎麦を食べる庶民は脚気にならないため健康に良いとして重宝されたらしい。
(出典:そばを楽しもう、参考12)

まとめ
飛騨高山の駅の立ち食い蕎麦屋で、蕎麦を注文した後、蕎麦とうどんとどっちがよく食べられるかを聞いたら、5秒ほど悩んでいた。高山には高山うどんというのがあり、これも美味しいのと蕎麦というと信州を連想するためにその対抗意識があるようだ。しかし、飛騨古川に行くと、地元で栽培した蕎麦で美味しい蕎麦を食べるための運動が展開されていて、蕎麦への深い愛情を感じた。それが冒頭の蕎麦屋だ。あと1カ月ほどで2017年も終わりだ。大晦日には年越し蕎麦を頂くが、そんなことを思い出しながら、2018年に向かうのも一考かもしれない。

以上

参考1:http://world-noodle-dictionary.com/roots/origin.html
参考2:http://www.worldatlas.com/articles/top-buckwheat-producing-countries-in-the-world.html
参考3:http://soba-ya.com/rekisi/741.html
参考4:http://www.utm.utoronto.ca/~crawfor7/gcrawford_site/Japanese_Palaeoethnobotany_files/
参考5:http://gandam4d.blog8.fc2.com/blog-entry-247.html
参考6:http://www.indexbox.co.uk/news/Buckwheat-Manufacturers-Are-Searching-for-New-Niches/
参考7:http://todo-ran.com/t/kiji/13480
参考8:https://ja.wikipedia.org/wiki/蕎麦 
参考9:http://tabi.tobu.co.jp/area/nikko/shiru/201404/
参考10:https://www.ds-j.com/nature/ibuki/Information/access/ibukisoba.htm
参考11:http://sobatomo.jp/publics/index/26/
参考12:http://www.tomisen.net/2014/11/04/12449.html